たとえ外に出られなくても、おいしいお酒を楽しみたい。心と体に染み入る幸福の一杯。お酒を愛する人々の物語をお届けします。

途絶えた客足、個人事業主の悲哀

 今年3月30日夜、東京・大井町のプレミアムテキーラバー「Gatito(ガティート)」のオーナー伊藤裕香さん(41)は、客のいない店内で、スマホから流れる小池百合子・都知事の記者会見に耳を傾けていた。「バーやナイトクラブなど接待を伴います飲食店に行くことは当面お控えいただきたい」。新型コロナウイルスの感染拡大を踏まえ、小池知事が注意を呼びかけていた。「このまま営業を続けていいのだろうか」。伊藤さんは聞きながら、不安になった。
 客足はすでに減っていたが、翌日からぱったりと途絶える。誰も来ない店に一人居続けるのはつらかった。4月7日に政府が緊急事態宣言を出すと、店を休業した。伊藤さんは、ガティートのほかに沖縄にもう一店を構え、従業員2人を雇っている。店の再開が見通せず、収入のないまま、家賃や人件費がかさみ、蓄えが減っていった。雑誌の編集者として出版社に勤めていた頃は、どんなときも一定の給料が保証されていた。個人事業主はこんなとき苦境に立たされる。味わったことのない不安に襲われた。

オリジナルグッズのマスクとTシャツ

#おうちテキーラリレー

 なにか前向きになれることはないか。店を休業してから、伊藤さんは考えた。そして、始めたのが「#おうちテキーラリレー」。4月13日、テキーラを家でどうやって楽しむか、まずは自分のお気に入りのテキーラやおつまみを紹介し、みんなの楽しみ方も教えて、とフェイスブックに投稿した。
 「『うれしいときもテキーラ、悲しいときもテキーラ』という言葉が、メキシコで言い伝えられています。テキーラには、飲むと気持ちを明るくしてくれる、不思議な力があります。それは、原料のアガベが長い年月、メキシコの強い太陽を浴びて育つからかもしれません。
 もし、この投稿でテキーラに少しでも興味を持ってもらえたなら、ぜひ一度『おうちテキーラ』を試してみてください。あなたのおうち時間が、もっと楽しくなりますように」。伊藤さんの友人を起点にリレーは広がり、緊急事態宣言が解除された後も続いた。

休業をきっかけに制作を始めたオリジナルグッズ

 同じ頃、テキーラをモチーフにしたTシャツやカバンといったグッズを販売するオンラインショップを開設した。「お店は、正しく理解されないテキーラの誤解を解くためのひとつの手段に過ぎない。営業できなくても、フェイスブックに投稿したり、グッズを販売したり、ほかにもできることはありました」と伊藤さんは振り返った。

メキシコ・テキーラ村のバーで働く女性と

セレブや成功者の飲む酒

 メキシコの地酒に過ぎなかったテキーラだが、20世紀後半、芸能界を通じて世界的に知られていく。イーグルスが、テキーラを使ったカクテルと同じタイトルの「テキーラ・サンライズ」をヒットさせ、ローリング・ストーンズは世界ツアーでホテルのバーを訪れると必ず、このカクテルを注文したと噂(うわさ)された。
 俳優のジョージ・クルーニーやミュージシャンのジャスティン・ティンバーレイク、ギタリストのカルロス・サンタナらは自分のブランドを立ち上げたり、ブランドのオーナーとなったりした。ロバート・デ・ニーロやショーン・コネリーら、ハリウッドスターの愛好家の影響もあり、質の高いプレミアムテキーラは、アメリカで「セレブや成功者の飲む酒」としての地位を確立する。
 テキーラのボトルには定型がなく、ピストルや機関銃、豚、馬の蹄鉄(ていてつ)、アガベの形をしたものなど多彩で芸術的だ。カラフルな瓶の中に植物が生えた細工を施したものもあるが、なかでも目を引くのが骸骨の形をしたボトルだ。

骸骨のボトル。死者を弔うときもテキーラ

こんな形の幸せがあるなんて

 メキシコでは毎年10月末から11月初頭にかけて、先祖の魂を弔う祭り「死者の日」が行われる。祭壇にはテキーラが供えられ、仮装した人々が一晩中、テキーラを飲んで死者を思う。日本のお盆にあたるその行事の期間中は、骸骨の形をしたパンや菓子、人形が街中にあふれる。骸骨の形をしたボトルは、死者とともに生きるという、メキシコ人の人生観を象徴しているのかもしれない。
 テキーラを飲むと、悲しいときにも、どこか前向きになれるということなのだろうか――。伊藤さんは「ほかのお酒は飲んでいると気持ちがゆるやかなってきますけど、テキーラは目が覚めていくというか、気持ちが軽くなっていくんです」と強調する。
 コロナ禍で店を休業していたとき、フェイスブックに伊藤さんは、こう書いている。「こんなかたちの幸せがあるなんて、こんな状況にならなきゃわからなかった。良いことばかりじゃないけど、悪いことばかりでもないなと」。テキーラが人生を変えた。いろんな世界とつながることができた。(クロスメディア部 小坂剛)

ホット・テキーラに、スイートナッツのカマンベールチーズ

【伊藤裕香の家飲み】ホット・テキーラに、スイートナッツのカマンベールチーズ

 「寒い夜にぴったり。お湯割りにオススメのテキーラは『エラドゥーラ』のアネホ(1年から3年熟成のタイプ)、アメリカンオークの新樽で熟成され、力強い樽の香りが特徴です。あらかじめお湯で温めておいたグラスに、クローブ2粒、ドライオレンジ1枚を入れ、 エラドゥーラ40mlに適量のお湯を注ぎ入れて軽く混ぜます。時間がたつにつれてオレンジ、クローブの甘い香りがテキーラと混ざり合い、味の変化を楽しめます。
 トースターで素焼きしたミックスナッツにアガベシロップ(蜂蜜やメープルシロップでもOK)をからめておき、カットしたカマンベールチーズにかけます。耐熱容器に入れて、トースターでまるごと温める食べ方もオススメです」

伊藤裕香】1978年生まれ。東京都出身。学生時代、バーでアルバイトしたことがきっかけで、蒸留酒の魅力に目覚める。出版社に14年勤務したのち、2013年に脱サラでプレミアムテキーラバー「Gatito」(http://gatito.jp/)、2015年に「Elote」(那覇市)を開業。日本テキーラ協会認定グラン・マエストロ・デ・テキーラ。日本メスカル協会認定メスカレロ。趣味は秘湯巡りで、温泉ソムリエの肩書も。テキーラグッズのオンラインショップ(https://bargatito.thebase.in/)を運営。

筆者紹介
小坂剛(こさか・たけし) 読売新聞クロスメディア部次長。秋田支局、社会部、メディア局などを経て現職。お酒と食べ物に好き嫌いなし。著書に「酒場天国イギリス」「あの人と、『酒都』放浪」(いずれも中央公論新社)。酒文化の紹介がライフワーク。

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