旅するバーテンダー

 東京都台東区花川戸、隅田川沿いの公園前の小路に、そのバーはある。浅草寺から東に歩いて5分ほど。鮮やかなロイヤルブルーに塗られたドアには、営業中も鍵がかかっている。フランス王家の紋章をかたどったノッカーをたたき、店内に入ると、暗い室内に荘厳なオペラ音楽が響いていた。ろうそくが照らし出すカウンターの向こうには、3段のバックバーにボトルが輪郭を浮かべ、その下にグラスが宝石のように輝いている。

「BAR DORAS」の入り口

 「BAR DORAS」(バー・ドラス)のオーナーバーテンダー、中森保貴さん(46)は、今年4月、開店15周年を機に店の扉に鍵をかけ、入店時はノックをしてもらうことにした。会員制ではない。「外と隔絶された空間で、ヨーロッパの空気感を味わってもらいたいと考えました」。店ではヨーロッパのお酒、主にスコッチウイスキーと、フランス・コニャック地方で厳格なルールに基づいて造られる高級ブランデーのコニャックを提供している。

コニャックマラソンの給水地点で

 10か月に一度、店を閉めてヨーロッパを旅している。街のバーやレストランで食べて飲み、酒屋、のみの市を巡り、ボトルやグラス、調度品を探し回る。生産者を訪ねて一緒に食事し、農作業を手伝い、家に泊めてもらい、教会で行われる子供の洗礼式にも参加した。給水地点でコニャックが振る舞われるコニャックマラソンにも出場し、足の裏で痛いほどコニャックを感じた。そんな日々は著書「旅するバーテンダー」につづられている。旅での体験や、出会った人々の思い出を伝えながらお酒を提供するのが、中森さんのスタイルだ。

カウンターの上は光と闇が溶け合う空間

バーテンダーと格闘家、静と動の歯車

 「なぜバーテンダーになったのですか」と尋ねると、「長い人生を一言で言えないことと同じように、徐々に導かれていったように感じます」と、答えが返ってきた。パンクロックバンドとサーフィンに明け暮れた大学時代が終わろうとするとき、いつかバーを開きたいと考えた。米・カリフォルニアのライブハウスにデモテープを持ち込み、売り込みに回っていたとき、偶然目にしたバースペースの格好良さが印象に残っていたからだ。
 大学卒業後、酒や食品を扱う企業で3年間働き、酒の知識や流通を学んだ。同時にワインやスコッチウイスキーの奥深い伝統に魅せられた。その後、銀座や青山、向島のバーで修業し、生まれ故郷の浅草・花川戸に2005年、自らの店「ドラス」を構える。
 ドラスは、スコットランドのゲール語で扉を意味する。酒を通じて、ヨーロッパへとつながる浅草の扉であって、欧州の文化を伝える場所でありたいとの願いを込めた。様々な人が、その扉を開きに来てもらうことは、地元への恩返しにもなる。
 体を鍛えようと始めたシュートボクシングで日本チャンピオンになり、プロになったのも、店を開いたのと同じ年だった。「バーの経営との両立なんて無理」と反対する人は多かったが、若気の反骨心から「同じ土俵に立ってから言ってください」と反発し、一度きりの人生だからと、バーの仕事も絶対手を抜かないと自らに誓った。

シュートボクシングの引退試合を終えて

 後楽園ホールのリングに立つと、客席は最前列しか見えない。その外側は闇のようだった。スポットライトにあたるリングの上で、客の熱狂はダイレクトに響いた。暗いバーのカウンターでスポットライトのあたるグラスと自分が重なった。どちらもプロとして、格闘家として戦う姿を見てもらい、自らの思いを込めた一杯の酒を味わってもらう。勝利の高揚感と、お客さんに一杯を喜んでもらう。「動の歯車」と「静の歯車」がかみ合った。7戦し、3勝4敗。プロ生活3年で格闘技を引退した。

ストレートに思いを込めて

 店を開いたとき、運転資金はなかったものの、コツコツと地方の酒店を回って買い集めた数千本のオールドボトルがあった。すでに販売終了になり、プレミアがついたウイスキーやブランデー。だが、開店2年後から毎年ヨーロッパを旅するようになると、買い集めてきたオールドボトルは、現地の生産者を訪ねて買い付けた現行品の酒へと置き換わっていく。その方が、生産者の思いを伝えながら、来店者に説得力のある一杯を提供できると思うからだ。
 「酒はストレートで提供することが一番難しい」。中森さんはそう考える。一見、ボトルに入った液体をグラスに注ぐだけだが、ボトルを開栓してからどのぐらいのタイミングで出すか、温度は、グラスは、と細心の注意を払う。シンプルなだけに、ごまかしがきかない。できることなら、酒を送り出した生産者の思いや暮らし、生産地の風土や歴史を伝え、お客さんに一杯の酒の背後に広がる世界を感じてもらいたい。それが、中森さんの目指す「魂の一杯」なのだ。(クロスメディア部 小坂剛)

コニャックのハイボール

【中森保貴の家飲み】……コニャックのハイボールは炭酸から

 私のオススメは、「ドルーエ」という小規模農家が造るコニャックです。ブドウ本来の味わいが感じられる一本です。まずはグラスに注いで、ゆっくりと香りを楽しんでください。その間に氷を用意します。コニャックを注いだのとは別のグラスに、大きな氷を1個ずつ上下に重ね、軽くかき混ぜて氷を回し、グラスの温度を下げます。ウイスキーのハイボールを作るとき、氷に何度か水をかけ、注いだウイスキーにとろみや粘性を付ける作業を行いますが、コニャックは水と相性が悪いので、炭酸を使います。
 コニャックは糖分があって下に沈むので、まずは炭酸から注ぎます。目安はコニャックの2.5倍ほど。その上からかぶせるようにコニャックを注ぎます。最後に、グラスの外側の前と後ろにオレンジピールを軽くしぼって完成。グラスを口に持っていくときにも、飲んだ後にも、オレンジの香りが感じられます。

中森保貴(やすたか)】1974年生まれ。法政大学社会学部卒業後、信濃屋食品に入社。25歳のときにバーテンダーに転職し、銀座や青山、新宿、向島のバーで勤務した後、2005年に出身地の浅草・花川戸に「BAR DORAS」(バー・ドラス)をオープン。スコッチとコニャックをダブルメインに、カクテルの手法と技術も追究を重ねている。毎年続けてきたヨーロッパ旅行での体験をベースに、酒の背景となる文化や伝統を伝えている。著書に「旅するバーテンダー」「旅するバーテンダー2」。

【宮城峡蒸溜所50年の歴史を味わうセミナー開催】

 ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜(じょうりゅう)所で最初に蒸留され、ニッカウヰスキーの創業者で、日本ウイスキーの父とも呼ばれる竹鶴政孝が半世紀前にテイスティングしたファーストドロップを50年間熟成させた原酒などで造った希少なボトルを味わうイベントが11月22日(日曜日)に開かれます。アサヒビール・ウイスキーアンバサダーの佐藤一さんと、ニッカウヰスキーのチーフブレンダー・佐久間正さんによるレクチャーに耳を傾け、日本ウイスキーの過去と未来に思いをはせる催しです。詳しい内容はこちらから(定員に達したため参加受け付けは終了しました)。

筆者紹介
小坂剛(こさか・たけし) 読売新聞クロスメディア部次長。秋田支局、社会部、メディア局などを経て現職。お酒と食べ物に好き嫌いなし。著書に「酒場天国イギリス」「あの人と、『酒都』放浪」(いずれも中央公論新社)。酒文化の紹介がライフワーク。

→「欧州の息吹伝える魂の一杯〜浅草の扉で味わうコニャック(下)」
←「竹鶴政孝、幻の江別蒸溜所計画〜理想のウイスキー、夢の続き(上)」

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