ウイスキーづくりに情熱を注ぎ続けた竹鶴政孝と妻のリタ

 たとえ外に出られなくても、おいしいお酒を楽しみたい。心と体に染み入る幸福の一杯。お酒を愛する人々の物語をお届けします。

大学ノートの途中から

 スコットランドでウイスキー造りを学んだ竹鶴政孝(1894~1979年)は1923年、寿屋(現・サントリー)で鳥井信治郎社長の下、大阪・山崎で蒸留所の建設に着手、翌年に蒸留所が操業し、日本ウイスキーの歴史が幕を開けた。竹鶴は34年には寿屋を退社して北海道・余市に大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)を創業し、「日本ウイスキーの父」と、ともに評される鳥井とは別の道を歩み始めた。実はその7年前、寿屋時代の竹鶴は、余市と同じ北海道の札幌市の東隣にある江別市内に蒸留所の建設計画を温めていたが、このことは案外知られていない。

竹鶴が大学ノートに記した計画

 竹鶴がその計画を記した大学ノートは余市蒸溜所のウイスキー博物館にある。「Wine.oct.1917」と表紙に書かれたこのノートには、「昭和二年(一九二七年)十月、北海道ニウヰスキー工場ヲ建設スルニアタリテ」と突然始まり、江別を選んだ理由や地図、工場の生産量や面積、建築費などが数ページにわたって記されている。

幻となった江別蒸溜所計画を調べた佐藤さん

山崎の原酒に危機感?

 「昭和二年」という年は、山崎蒸溜所の完成から3年後、寿屋が山崎の原酒を使って初の国産ウイスキー「白札」を発売する2年前に当たる。増産の需要がないこの時期、なぜ国内に第2蒸留所を造ろうとしたのかは明らかになっていない。疑問に感じたアサヒビールのウイスキーアンバサダー、佐藤一さん(61)は各地を訪れて調査し、推理を重ねた。
 佐藤さんは昨秋、成果を論文「『江別』から『余市』へ 竹鶴政孝の工場候補地変遷の思索、そして現状への提言」にまとめ、愛好家団体「ウイスキー文化研究所」の最難関資格「マスター・オブ・ウイスキー」の一次試験に提出。テイスティングや口頭試問などの二次試験もクリアして10人目のタイトルホルダーとなった。
 論文では、江別の計画について「山崎蒸溜所で原酒づくりがうまくいかず、危機感を持った竹鶴が、気候の違う北海道なら良い原酒が造れるはずと、第2蒸留所の建設を鳥井に進言するため」との見方が明らかにされている。

「これがスコッチウイスキーになるものやら」

 24年に操業した山崎蒸溜所の初期の原酒はどんな味だったのか。後に竹鶴が独立する際、支援を行った実業家の加賀正太郎は「ウイスキーの味覚には相当、自信があったが、当時、山崎製のウイスキーが、いくら竹鶴氏の説明を聞いても、いつの日にこれがスコッチウイスキーになるものやら、どうしても納得がいかなかった」と手記に記している。同時期に原酒を飲んだ専門家も否定的な感想をもらしていた。
 竹鶴は原酒を持ってスコットランドに出張し、現地の専門家の助言を仰いで、改良を重ねた。こうした過程で、期待通りのウイスキーを造れない原因は「気温」にあり、冷涼な北海道にこそ蒸留所を建設する必要があるとの考えに思い至った、というのが佐藤さんの見立てだ。
 山崎の原酒を使って29年に発売された国産初のウイスキー「白札」の売れ行きは、芳しくなかった。ウイスキー特有の焦げくささが、飲み慣れない日本人に受け入れられなかったというのが通説だが、原酒そのものにも問題があったと佐藤さんはみる。この点は、ウイスキー文化研究所の土屋守代表も近著「ビジネスに効く教養としてのジャパニーズウイスキー」で、原酒の製造時に麦芽を乾燥させる際、ピート(泥炭)を焚(た)きすぎたことや、麦芽の挽(ひ)き分けが適切でなかった技術的問題の可能性を指摘している。

候補地は江別駅の南側?

 それでは、なぜ北海道の中でも江別に白羽の矢が立ったのか。佐藤さんは、北海道内で石炭事業を展開していた「北海道炭礦汽船」に勤める竹鶴の兄が道内に住んでいたことに注目し、以下のような推論を組み立てた。竹鶴はスコットランドに渡航前、兄を訪ねて北海道の冷涼で澄んだ空気に触れていたので、渡航後、似た気候や風土の北海道が頭に浮かんだ。帰国後、兄のいた夕張を拠点に北海道で第2蒸留所の建設予定地を探したと仮定すると、江別は札幌から夕張に向かう途中にあり、石狩川に近く、仕込み水やピート、大麦、石炭などを入手しやすかったため、容易に候補となった。
 佐藤さんは江別市史や古い地図を手がかりに歩き回り、建設候補地の特定を試みた。計画を知る人や候補地の場所を記した資料は見つからず、計画にある坪5円という土地代金をもとに、当時の江別の地価を調べ、現在のJR江別駅の南側が有力との推論を導き出した。

余市や宮城峡のウイスキーが並んだバックバー(ニッカブレンダーズバー)

熱心な誘致もあり独立後は余市へ

 では、計画はなぜ幻に終わったのか。同じ頃、横浜のビール工場が経営不振に陥っていると伝えられ、寿屋はそのビール工場を買収した。竹鶴は29年に山崎蒸溜所長兼任でビール工場の工場長を命じられた。江別に蒸留所ができなかったのは、ビール工場の買収を優先する寿屋の経営判断があったためと佐藤さんはみる。
 竹鶴は結局、寿屋を退社し北海道に渡って蒸留所を建設した。建設地を江別ではなく余市としたのは、余市の有力者から熱心な誘致の働きかけがあったことに加え、地代が江別より安かったこと、江別は水害のおそれがあったことなど、いくつもの要因が重なったためとされている。
 余市はリンゴの産地としても知られ、竹鶴はこの地でリンゴジュースを作ってウイスキーを出荷するまでの運転資金をつなぎ、ウイスキー造りに情熱を注いだ。佐藤さんは「日本のウイスキーの草創期は苦闘の連続で、余市ではなく江別に蒸留所ができていたら、歴史は変わっていた。資料の行間に隠れた真実を探ると、道を切り開いてくれた先人の歩みを忘れてはいけないと改めて感じる」と振り返った。(クロスメディア部 小坂剛)

【宮城峡蒸溜所50年の歴史を味わうセミナー開催】

 ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜所で最初に蒸留され、竹鶴が半世紀前にテイスティングしたファーストドロップを50年間熟成させた原酒などで造った希少なボトルを味わうイベントが11月22日(日曜日)に開催されます。記事で紹介したアサヒビール・ウイスキーアンバサダーの佐藤一さんと、ニッカウヰスキーのチーフブレンダー・佐久間正さんによるレクチャーに耳を傾け、日本ウイスキーの過去と未来に思いをはせる催しです。詳しい内容はこちらから(定員に達したため参加受け付けは終了しました)。

→「竹鶴政孝、幻の江別蒸溜所計画〜理想のウイスキー、夢の続き(下)」
←前編、「ウィズ・コロナ時代の世界旅行〜国境を越えたバーテンダー(上)」

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