1862年に飲まれていたアラキチンダを再現したカクテル

 たとえ外に出られなくても、おいしいお酒を楽しみたい。心と体に染み入る幸福の一杯。お酒を愛する人々の物語をお届けします。

日本で初めてのバー

 横浜が開港した翌年の1860年、現在の横浜市中区山下町70番地にホテルが生まれた。米国のペリー提督が「黒船」に乗って上陸した地点のそばに、オランダ人の元船員が「横浜ホテル」を開いたのだった。木造の建物には、客室だけでなく、日本で初めてのバーが設けられたとされ、ここに日本のバーの歴史が幕を開ける。
 同区相生町でカクテルバー「ネマニャ」を営む北條智之さん(46)は、横浜開港資料館の英字新聞やネットオークションで入手した浮世絵師による案内記「横浜開港見聞誌」など、当時の資料を手がかりにして、横浜のバーの歩みを調べ、ブログにつづっている。
 「横浜ホテル」の開業を知らせる英字紙の広告には「YOKUHAMA HOTEL」とある。当時、外国人はこの街を「ヨクハマ」と呼んでいた。バーには、ビリヤード台が置かれ、ドアの上の掛け時計には弾丸の痕がたくさん残されていた。「口論やけんかは日常茶飯事で、ピストルの撃ち合いもあり、西部劇に出てくるバーと変わらない様子だったようです」(北條さん)

150年前のカクテルの味は?

 1860年代の英字紙の広告などからは、横浜の居留地の商社はワインやシャンパン、ブランデー、ジン、ウイスキー、ラムといった酒を輸入し、横浜中華街の辺りで競馬が催された際には、屋台のバーで酒が提供されたことがうかがえる。横浜スタジアム付近にあった遊郭「岩亀楼(がんきろう)」ではイギリス人がシガー片手にブランデーソーダを飲んでいたという。横浜開港見聞誌には、市民が酔っ払った外国船の水夫を「ドロンケン」と呼んでいたことが記され、オランダ人の経営する酒場では、店番の日本人が外国人客と飲み代を巡って争う様子が描かれている。北條さんは「横浜は今以上に、にぎやかな街だったのかもしれない」と想像を巡らせる。
 ネマニャで北條さんに、アラキチンダという当時の酒をつくってもらった。1862年の横浜異人館での様子を記した横浜開港見聞誌に「もっとも美味なるもあり。阿蘭陀葡萄酒にアラキチンダなどの品あり」とある。北條さんは、アラキチンダが、ジンを意味する阿刺吉(アラキ)酒とポートワインを意味する珍陀(チンダ)酒を混ぜたものだったと推理し、再現している。その味は甘みと苦みがバランスよく、古さを感じさせない優しい飲み口だった。

1874年の「ザ・ジャパン・パンチ」に描かれた曲芸バーテンダー

日本最古のフレア・バーテンディングの記録

 北條さんをくぎ付けにした風刺画がある。イギリス人画家チャールズ・ワーグマンによる風刺漫画雑誌「ザ・ジャパン・パンチ」で1874年9月に発行された号には、バーテンダーが曲芸師のように腕を激しく動かす様子が描かれている。両腕に持ったグラスのような器と器の間を液体が弧を描いて流れ、つま先で容器を受け止める離れ業をみせている。「誇張して描かれてはいるが、当時からフレア・バーテンディング(フレア)が披露されていたことを示す日本最古の記録ではないか」と北條さんはみる。

フレアの技を披露する北條さん

 フレアは、ボトルやシェーカーを投げたり、グラスを積み重ねたりして、お客を楽しませながらカクテルをつくるスタイル。そのルーツは1849年に「アメリカン・カクテルの父」と呼ばれるジェリー・トーマスの考案した「ブルー・ブレーザー」というカクテルだ。銀製のマグを二つ用意し、一方のマグにスコッチを入れて火を付けると、お湯を入れたもう一方のマグへ。それを繰り返すたび、青い炎が二つのマグの間を流れていく。
 風刺画に描かれたバーテンダーは、外国人居留地にできたインターナショナル・ホテルのバーにアメリカから招かれたバーキーパーで、トーマスがいたのと同じサンフランシスコ近郊のバレーホからやってきたと記されていた。

ボトルを宙に投げる北條さん

横浜で生まれたフレアカクテル「ライディーン」

 北條さんは、高校卒業後にバーテンダーとなり、1996年から横浜駅前のカフェバー「マルソウ」で働き始めた。客足が伸び悩んだことから、中華料理を出したり、大きな串で焼き鳥を出したり、いろんなサービスを試した後、映画「カクテル」(88年公開)でトム・クルーズが演じたバーテンダーをヒントに、カウンターでボトルを投げるサービスを思いつく。まだフレアの言葉さえ知られていない時代だったが、映画を参考にしたり、韓国にすご腕のフレア・バーテンダーがいると知って、訪ねて技術を教えてもらったりした。
 お手玉のようにボトルを宙に舞わせ、背面でボトルをキャッチ、肘に載せたグラスにカクテルを注ぐ。パフォーマンスを披露してカクテルを作ると、来店者の反応がまるで違った。
 「北條さ~ん、ライディーンお願いしま~す!」。カウンターの向こうから声がかかる。ライディーンは98年に北條さんが考案し、後に横浜を代表するフレアのカクテルパフォーマンスになった。大音量の音楽と客の手拍子を浴びながら、北條さんは火をつけたボトルを宙に舞わせ、口から火を噴く。青い炎に包まれたグラスのタワーのてっぺんから液体を流す。店はフレア目当ての客でにぎわい、北條さんはアスリートのように働き続けた。
 2000年代になってフレアが流行すると、北條さんは国内外の大会で入賞を重ね、その草分けとして国内組織のトップを務めるなど、中心的な役割を担うようになる。フレアを通して北條さんが改めて感じたのは、「お客さんに喜んでもらうことの楽しさとやりがい」。アメリカから来た曲芸バーテンダーが100年以上前に活躍した横浜で、北條さんも現代の曲芸バーテンダーとして、その才能を開花させた。(クロスメディア部 小坂剛)

鮮やかに飾り付けられたブランコ・デ・ベラーノ

【北條智之の家飲み】……白ワインとスプライトで華やかに

 「白ワインをスプライトを割ったもの。お好きなデキャンタかボールに、白ワイン1に対してスプライト2の割合で入れます。柑橘(かんきつ)のスライスだけでもいいし、お好きなフルーツやハーブを入れてパーティー用に華やかに飾りつけてもいい。写真は、オレンジとレモンのスライスに、シナモン、ミントのハーブ、アニス、食用花を入れたものです。ブランコ・デ・ベラーノという名前で、スペイン語で夏の白ワインという意味。赤ワインとソーダでつくるカクテルが有名ですが、その白ワイン版です。酢の物やマリネに合います」

北條智之(ともゆき)】1974年3月東京生まれ。92年からバー・ピガール、東京會館、ホテルグランドパレスでバーテンダー修業。97年から横浜のカフェバー・マルソウで、ボトルやシェーカーを投げるなどして客を楽しませるフレア・バーテンディング(フレア)を始め、2013年にカクテルバー「ネマニャ」をオープン。「バーテンダーCATMANのブログ」はこちらから。CATMANは北條さんのフレア時代のニックネームで、猫背だったことが由来という。20年間披露してきた「ライディーン」の動画(スモールバージョン)はこちらから

筆者紹介
小坂剛(こさか・たけし) 読売新聞クロスメディア部次長。秋田支局、社会部、メディア局などを経て現職。お酒と食べ物に好き嫌いなし。著書に「酒場天国イギリス」「あの人と、『酒都』放浪」(いずれも中央公論新社)。酒文化の紹介がライフワーク。

→「150年前の曲芸バーテンダー~ヨクハマでカクテルは進化する(下)」
←前編「埼玉・草加でスコッチバーを20年~でも酒を売りたいわけじゃないんです(上)」

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