たとえ外に出られなくても、おいしいお酒を楽しみたい。心と体に染み入る幸福の一杯。お酒を愛する人々の物語をお届けします。

頭に巻いた白いタオルがトレードマークの宮森社長

「うるかす」がない性格

 四方を山に囲まれ、磐梯山を源とする豊かな地下水をたたえた会津盆地には、良質な米が実る。冬場の寒冷な気候も手伝って、古くから酒造りが盛んだった。17世紀、会津藩の城下には200軒を超す酒造家がいて、農作業に携わる人々は疲れた体を濁酒(どぶろく)で癒やした。酒は、ニシンや棒ダラなどを用いた保存食や発酵食、神事や宴(うたげ)、日々の暮らしとともにあった。
 システムエンジニアだった宮森義弘さん(44)が、東京都内から福島県会津若松市にある実家の宮泉銘醸に26歳で戻った頃は、戦後の高度経済成長を経てライフスタイルが変わり、全国的に日本酒離れが進んで、会津にある酒蔵の多くも経営難に直面していた。大学を卒業してすぐに地元に戻ろうとしたが、両親に反対された。「経営が思わしくないのだろう」と、当時は想像していたが、いざ戻ってみると、事態は予想以上に深刻だった。
 「蔵の中は汚いし、造っている酒の量は少ないし、驚きの連続でした」
 大量の在庫を抱え、生産量も少ない。約3億円の借金を抱えていた。
 会津地方には水につけておくとか、いったんはそのままにしておくという意味の「うるかす」という方言がある。「宮森さんはうるかすことができない性格でシロかクロかを即決する」というのが旧知の酒販店主の宮森さん評。実家に戻って取締役に就任すると、すぐに駅前に掲げていた看板を外すなどの支出削減策に乗り出し、古くから続く取引先も容赦なく切った。ほどなく黒字転換をした一方、周囲からは猛反発を招き、社長だった父との喧嘩(けんか)が絶えなくなった。

宮泉銘醸は、難攻不落といわれた鶴ヶ城から数百メートル離れた場所にある

日本酒のイメージ変えた「飛露喜」

 幼い頃から家業を継いで酒蔵の経営者になるつもりだった宮森さんだが、酒造りそのものに携わるイメージは持っていなかった。考えを変えたきっかけは、東京でのサラリーマン時代、会津坂下(ばんげ)町の廣木酒造本店の「飛露喜(ひろき)」を飲んだことだった。「それまで日本酒を飲んでも、おいしいと感じたことがなかったんです。でも、初めて本当にうまいと感じた。おじさんの飲む酒という、日本酒に対するイメージががらりと変わり、自分もこんな酒を造ってみたいと思ったのです」と、宮森さんはその時を振り返る。
 透明で濃密、甘みがあるがキレもある。宮森さんが衝撃を受けた飛露喜は、福島の酒としてダントツの知名度を誇り、都内の居酒屋でも品切れが相次いだ。「会津娘」「一歩己(いぶき)」「大七」「天明」「奈良萬(ならまん)」「ロ万(ろまん)」。今でこそ人気銘柄目白押しの福島の日本酒だが、1990年代までの福島は「首都圏向けに安価な酒を大量生産する県」という印象が強かった。そのイメージを破り、量から質へと転換する先駆けとなったのが「飛露喜」だった。
 酒蔵を継ぐだけでなく、人の価値観までも変えてしまうような酒を造りたい。それには、それまでの宮泉銘醸のように、会社の経営は蔵元が担い、酒造りは杜氏(とうじ)が受け持つ分業制より、蔵元が経営に加えて酒造りも統括する蔵元杜氏のスタイルが適していると感じた。

麴(こうじ)がとりつきやすいように、米は外側を固く、内側が柔らかくなるように蒸す

酒蔵は巨大な冷蔵庫

 大志を抱いて宮森さんが地元に戻ると、納得のいかないことばかりだった。宮泉銘醸に限った話ではないが、同じ酒蔵でも、コンテストの全国新酒鑑評会用に造る酒と、市販する酒の造り方が全く違い、同じ酒蔵の酒とは思えないことすらあった。販売先に冷蔵での貯蔵を求めながら、酒蔵では冷蔵しない一部の工程も残っていた。
 宮森さんは、闘志をむき出しにして一つずつ変えていった。心掛けたのは丁寧な酒造り。フィルターにかけた水を原料だけでなく、すべての工程で使う。原料の酒米や酵母に徹底してこだわり、洗米や米の蒸し方など、1回あたりの分量から熱の加え方に至るまで細かな工程を見直した。改築を繰り返し、最終的には酒蔵の骨組みだけを残して、ほぼすべてを造り替えた。電気代だけで相当な費用がかかるが、蔵全体を巨大な冷蔵設備で冷やすシステムを構築し、酒蔵全体を冷蔵庫のようにもした。合理性を追求しつつ、伝統産業としての酒蔵の趣も大事にする。工場のようなたたずまいにはせず、木造と漆喰(しっくい)にこだわった。衛生環境を保ちやすいステンレスなどに比べて汚れやすいため、頻繁に掃除する。冷蔵設備があるので通年生産は可能だが、あえて夏場の3か月は生産を中止し、掃除と器具のメンテナンスに専念する。

漆喰と木を多用した酒蔵に立つ専務の宮森大和さん

兄であることを忘れる

 宮森家には400年近い酒造りの歴史がある。本家と分家が幾つも会社を興し、酒造りをしてきた。2002年に入社した宮森さんは、先々代から造り続けてきた「會津宮泉」の銘柄とは別に、本家筋で廃業した銘柄「冩樂(しゃらく)」を継ぎ、自らのブランドとして復活させた。目指したのは「百人が飲んで百人がおいしいと感じる味」。宮森さんの表現を借りれば「味に膨らみがあって、うま味、甘み、そして最後にキレのある酒」だ。
 上質な甘さを持つ冩樂は初リリースからほどなく、市販酒の酒質を競う仙台日本酒サミットに初参加して上位入賞し、全国の地酒専門店から注文が舞い込むようになる。14年の「SAKE COMPETITION」の純米酒、純米吟醸酒の2部門で、いずれも250を超える出品の中から1位となると、人気に火がついた。
 「冩樂」と「會津宮泉」を主体とする宮泉銘醸の直近の年間売り上げは、宮森さんが蔵に戻った02年の10倍以上となった。3億円あった借金は完済し、その経営と酒造りの手腕には、同社専務で弟の宮森大和さん(41)も舌を巻く。「兄が戻ってこなかったら、会社は存続していない。現在ある宮泉の歴史はほぼ宮森義弘の歴史」。インタビューの際、大和さんは部屋の外で尊敬する社長の話にじっと耳を傾けていた。システムエンジニアや政治家の秘書などの仕事を経て、兄に「手伝ってほしい」と呼び戻された大和さんは、酒蔵の改革に猛進する兄の姿を見て、自らの役割に徹するため、仕事時には兄弟であることを忘れることを決めた。
 宮泉銘醸の売り上げは、今回のコロナ禍でもほとんど減少していない。急成長と逆境にも強い酒蔵の源泉はどこにあるのだろうか。(クロスメディア部 小坂剛)

【宮森義弘】1976年9月、福島県生まれ。県立会津高校、成蹊大学工学部を卒業後、東京でシステムエンジニアとして4年間働き、高速道路の渋滞情報表示システムの開発などに携わる。2002年に古里の会津若松市に戻り、宮泉銘醸に入社し取締役。福島県清酒アカデミーで学び、10年から同社社長を務める。宮泉家は400年近く酒造りを続けてきた家系で、1964年に分家して創業した宮泉銘醸は長く「會津宮泉」の銘柄で日本酒を醸してきた。宮森さんは、廃業した本家筋の銘柄「冩樂」を2007年に復活させ、全国的なブランドに育て上げる。

<筆者紹介>
小坂剛(こさか・たけし) 読売新聞クロスメディア部次長。秋田支局、社会部、メディア局などを経て現職。お酒と食べ物に好き嫌いなし。著書に「酒場天国イギリス」「あの人と、『酒都』放浪」(いずれも中央公論新社)。酒文化の紹介がライフワーク。

→「20年で売り上げ10倍超~会津の日本酒蔵が「冩樂」で急成長した理由(下)」
←前編「タガメもキャビアもカクテルに~ミクソロジーとテクノロジーで変わるバー(上)」

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