小山喜八さんは入荷した酒の銘柄や特徴を筆でしたためる

 たとえ外に出られなくても、おいしいお酒を楽しみたい。心と体に染み入る幸福の一杯。お酒を愛する人々の物語をお届けします。

多摩村のよろずや

地酒ファンは何時間いてもあきないほど種類が豊富

 京王線聖蹟桜ヶ丘駅からタクシーで5分、東京都多摩市関戸の小山商店は支店を持たず、1店舗だけで年間10億円超を売り上げる全国でもトップクラスの酒販店だ。一般的に、流通量の少ない地方の酒蔵は信頼関係のある酒販店としか取引をしないことが多いが、小山商店は300を超す酒蔵の特約店として、人気の地酒をそろえている。店の壁や棚、冷蔵庫に酒瓶が隙間なく並び、遠方から地酒ファンが車でやってくる。

専修大学時代はアメリカンフットボールの選手。中央手前が喜八さん

 小山商店は現会長・小山喜八さん(72)の祖父・小山清吉さんが大正3年(1914年)に浅草で穀物を扱う「穀屋(こくや)」として創業した。関東大震災で店が倒壊すると、本家のあった多摩村(当時)に移転して村人の暮らしを支える「よろずや」となる。以来、店頭販売だけでなく、御用聞きで地域を回り、ビールや清酒、食料品に調味料、塩やたばこ、灯油も配達してきた。専修大学でアメリカンフットボールの選手だった喜八さんは1971年、卒業と同時に父・利治郎さんの営む小山商店に入り、御用聞きに明け暮れた。150軒、200軒と受け持ち、1歳年下の妻、明子さんとの二人三脚で、無線も使って配達した。「サラリーマンの家は朝が早いですから午前7時には呼び鈴を鳴らし、終わるのは午後10時を回ってから。『小山はスーパーマンだ』と近所で言われました」と喜八さん。

「十四代」「飛露喜」……酒蔵を育てる酒販店

 当初、扱っていた日本酒は大手の製品だけだったが、「個性のある地方の酒も扱ってみては」という問屋の勧めで地酒に力を入れるようになっていった。既に人気があった新潟の「八海山」や「〆張鶴」の醸造元に電話で注文してみたが、「在庫がないから」と相手にしてもらえなかった。夫婦で酒蔵を何度も訪ね、ようやく売ってもらえるようになったが、以前から取引のある酒販店に比べれば、本数は少なかった。
 そこで、「有名になった酒蔵よりも、あまり知られていない酒蔵との取引に力を入れ、一緒に育てていく方がいい」と発想を転換した。全国の蔵元や酒販店で組織される日本名門酒会の勉強会に参加するなどし、「毎晩いろんな酒を試して味の違いを頭ではなく体で覚えた」(喜八さん)。「余り知られていないが、うまい酒を造る蔵がある」と聞けば蔵元に電話をかけた。サンプルを取り寄せて飲み、感想を伝える。脈があると感じたら、造りから値付け、銘柄名の選定やラベルづくりまで面倒をみた。喜八さんが最初の頃に手掛けたのは山形県村山市にある高木酒造の「十四代」、そして後に「飛露喜」の銘柄で知られる福島県会津坂下町にある廣木酒造。どちらも今は入手困難な人気銘柄だが、喜八さんが取引を始めた頃は無名だった。

「つらかったことはない。楽しかったな」と半世紀を振り返る喜八さん

 廣木酒造本店社長の廣木健司さん(54)は、廃業を考えるほど厳しい経営状態にあった97年、喜八さんから「自分は日本酒の専門店をやっている。応援してあげられるかもしれない」と電話をもらった。酒を送ったところ、喜八さんからこう言われた。「正直、この酒では戦えない。長い目で応援したいから、もっと廣木さん自身を表現してください」。喜八さんはそれから毎月、「これでは戦えない」と言った純米酒を数十本注文してくれた。そして、廣木さんが翌年造った「無濾過(ろか)生原酒」が、熱烈な地酒ファンが集うことで知られた、小山商店主催の酒の勉強会「多摩独酌会」の人気投票で1位となり一気に注目される。当時、加水も濾過も加熱殺菌もしていない搾りたての無濾過生原酒は珍しかったが、廣木さんが送ったサンプルを飲んだ喜八さんが「面白い」と感じたことがきっかけだった。廣木さんは「自分の酒蔵のストーリーはそこから始まった。売れない酒を注文してくれたのは、『待っているよ』という喜八さんのメッセージだった。励みになったし、恩義を感じた」と当時を振り返る。

消費者が喜ぶ値段を

 長野県佐久市の佐久の花酒造社長の高橋寿知(ひさとも)さん(57)も、喜八さんを恩人と考えるひとり。30歳を過ぎて実家の酒蔵に戻ったが、売り上げは低迷し、いつ潰れてもおかしくない状態だった。営業で地元を走り回ったが、打開策は見いだせない。栃木県内の酒販店から小山商店を紹介され、造った酒を持っていくと、「この酒じゃだめだけど、いい酒を造れば売ることができる。新酒ができたら送ってほしい」と喜八さんが励ましてくれた。翌年、懸命に造った酒を送ると、ゴーサインが出た。
 高橋さんが驚いたのは値段の決め方。喜八さんは、主催する酒の勉強会で高橋さんの一升瓶の生酒を参加者に飲ませて、「いくらだったら買うか」とアンケートを取った。多かったのは「3000円」という回答だったが、喜八さんは「それを下回ればきっと売れる。お互いに泣こう」といい、2000円台前半で売り出すことになった。
 原価を上回る価格が前提だが、利益をどのぐらい上乗せするか、同様の商品を他社はいくらで売っているかより、まずお客さんはいくらなら喜んで買うかを第一に考える。まさに逆転の発想。高橋さんが「こんなに生酒ばかりつくって大丈夫か」と父に心配されながらも搾って冷蔵庫に入れた数百本はその年、小山商店経由であっという間に売れていった。

成功への最短距離は?

 地酒蔵を育てる酒販店として全国に知られるようになり、喜八さんのもとには多くの蔵元からサンプルが届くようになったが、「欠点の多い酒を造っているところがいまだに多い」と喜八さんは言う。「お年寄りが好む昔風の酒はもう売れない。若い人が好んで飲む香りのある酒を造ってはどうか」「伸びていくのは個性のある酒」とアドバイスするが、判断基準はただ一つ、消費者が飲んでどう思うかだ。

小山商店で筆者が購入した清酒。右から2番目が佐久乃花

 喜八さんが取引のある蔵元に言うのは、それほど規模の大きくない酒蔵にとって、信頼のおける酒販店のみと取引することが成功への最短距離だということ。「いろんなところに酒が流れれば、どこでも買えるようになり、価値が下がっていく。いい酒販店さんだけと取引していれば、誰もが欲しがる酒になっていくんです」。小山商店では、晩酌目当ての個人客にも、業務用として購入する飲食店にも、酒は定価でしか売らない。長期的にみれば、値下げは酒蔵と酒販店の両方の首を絞めることになるからだ。

よろずやの誇り、今も忘れず

会長となった後も元気よく店頭に立つ喜八さん

 家業に入ってから半世紀、喜八さんは2019年に社長を長男の喜明さん(45)に譲ったが、今も使い込まれた前掛けに帽子をかぶって店先に立ち、客が来るたびに、高い声で「いらっしゃいませ~」と出迎える。インタビューではどんな質問にも即答。「ピンチはなかったんですか」「なかったですね。前しか向いてなかったから」。「つらいことはなかったですか」「なかったな。(妻の明子さんの方を向いて)楽しかったよな!」。答えるうちに話すスピードが加速し、なかなか聞き取りにくいが、最後は冗談を飛ばし、目尻を下げて「はっはっはっ」と笑いで締めくくる。
 1990年代以降、酒の小売りで規制緩和が進み、街の酒屋さんは次々と姿を消し、コンビニやディスカウントストアが出現した。小山商店は早い段階で地酒を中心とした品ぞろえに切り替えたことが奏功し、新型コロナウイルスが流行する昨年まで、右肩上がりで成長を続けた。過去約20年で売り上げは10倍超、ピーク時の年商は13億円にもなる。
 「父が残したものから何も削っていません」と喜八さん。酒蔵と直接取引するようになっても、「問屋さんを泣かせてはいけない」という父の教えを守り、問屋との取引は継続しているし、注文は減ったが灯油の配達も続けている。店の一角には駄菓子コーナーも。「必要とする人がいるうちは続けます。地酒の専門店ではあるけれど、よろずやでいいと思っています。いろんなものを売っていた方が、いざというときに強いんです」。喜八さんの話を聞いていたら、久しぶりに耳にした「よろずや」という言葉がキラキラと輝いてきた。(クロスメディア部 小坂剛)

小山喜八(こやま・きはち)】1948年生まれの「多摩っ子」。専修大学卒業と同時に父が社長を務める有限会社「小山商店」に入り、入社3年目から地酒を扱う。地方の酒蔵と信頼関係を築き、300蔵以上と特約店契約を結ぶ。2001年に社長、19年に会長となる。商売のモットーは「真面目に、正直に、焦らず」。社長は退いたが、「酒屋さんが減ってきているので、僕みたいなところが頑張らないと良い酒が残りませんから」と今も店に立つ。高校時代は柔道、大学時代はアメリカンフットボールに打ち込んだ。趣味は、山菜やキノコ採り、ドライブ、日曜大工。

筆者紹介
小坂剛(こさか・たけし) 読売新聞クロスメディア部次長。秋田支局、社会部、メディア局などを経て現職。お酒と食べ物に好き嫌いなし。著書に「酒場天国イギリス」「あの人と、『酒都』放浪」(いずれも中央公論新社)。酒文化の紹介がライフワーク。

→「年商10億、驚異の酒販店・小山商店のよろずや精神と正直商売DNA(下)」
←「創業400年、江戸の酒屋・豊島屋が今も続く理由(上)」

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