スコットランド・ウルフバーン蒸留所を訪れたときの谷嶋さん

 お酒を愛する人々の物語をお届けします。

食育ならぬ酒育

 お酒を楽しむ機会がなかった人に、正しい情報や知識を伝え、お酒をもっと深く知ってほしいと活動を続ける一般社団法人がある。その名も食育ならぬ、「酒育の会」。代表の谷嶋元宏さん(55)は早大大学院を卒業後、研究職で化粧品メーカーに入ったが、お酒好きが高じて脱サラ。東京・神楽坂で20年以上にわたってバー「Fingal」を営んでもきた。

カクテルを注ぐ谷嶋さん

 バーの営業が終わると、谷嶋さんは掃除や伝票の整理をし、3階にある酒育の会の事務所へとあがる。今度は団体宛てのメールをチェックしたり、会報の編集作業をしたりと明け方まで作業に追われる。帰宅して眠るのは朝。「何もなければお昼過ぎに起きる。昼夜逆転の生活です」
 谷嶋さんが仲間と「酒育の会」の活動を始めたのは2015年。昨今のコロナ禍で活動は制限されたが、お酒に興味のある人向けの入門講座や、詳しい人向けのテイスティング技術向上セミナーを毎月のように開催するほか、スコットランドやフランス・コニャック地方の蒸留所を見学するツアーも企画してきた。
 ウェブで発行する「LIQUL(リカル)」は、バーで扱う洋酒の基礎的な知識から、個性あふれるバー店主や愛好家のコラムなどを掲載。初心者からお酒通までが楽しめるお酒の情報サイトだ。

飲みたいお酒を探すには

 お酒の知識があまりなかった頃、筆者も酒育の会のセミナーに参加してみたことがある。土曜日の午後、会議室に集まった15人の参加者の前に、銘柄を伏せてウイスキーを入れたグラスが置かれる。参加者は谷嶋さんの合図で一杯ずつ味わう。発言を促されると、参加者は次々に「爽やかな柑橘かんきつのよう」「おろしたてのカーペットみたい」などと感想を述べ合い、どこの蒸留所かを推理してみせた。こんな表現をよく思いつき、味の違いがわかるものだと感心しながらも、「自分には到底無理」と下を向き、あてられないよう祈った。
 それから2年近くたつが、今でも味や香りの特徴を表現するのは難しい。感想は主観だが、何かに例えるなど、客観性を持たせないと伝わらない。それでも、言葉にしようとすることで新たな気づきがある。「テイスティングの作業は決して面白いものではないが、最終的な目的は、自分で何を飲みたいか、好みがわかるようになること」と谷嶋さん。お酒の個性を知れば、味や香りが予想でき、気分に合わせてお酒を選べるようになるからだという。

マッカランとボウモアの衝撃

 酒育の会の活動を谷嶋さんが始めたのは、お酒の楽しみ方を知る人が案外少ないと感じたからだ。サラリーマンは限られた場所で限られたお酒しか飲まない。だが、海外を旅したときに、日本ほど、いろんなお酒が飲める国はないと気づいた。「ウイスキーにブランデー、ラム、テキーラ、ジン、焼酎といった蒸留酒から、ビールやワイン、日本酒といった醸造酒まで、日本は世界中のあらゆるお酒が手に入る酒場天国。この環境を楽しむためにも、みんながもう少しお酒の事を知る機会があっていい」と考えた。
 谷嶋さん自身、幸運ともいえるお酒との出会いがあった。約30年前、大学院生のとき学会発表で訪れた仙台でのことだ。先輩と行った老舗バーで、何気なく「あんまりスコッチウイスキーってぴんとこないんですよね」と言うと、マスターがマッカラン18年を出してくれた。当時の流行は、トウモロコシなどが原料のアメリカのバーボン。大麦麦芽でつくるスコットランドのモルトウイスキーはあまり飲んだことがなかったが、香りも味もふくよかで、確かな味わいがあった。

学生時代に出会ったマッカランのボトル(バー「Fingal」で)

 衝撃を受けた谷嶋さんに、マスターは同じスコッチのボウモア12年を差し出した。スコットランドのアイラ島でつくられる薬品のようなクセがあるウイスキーだ。「理系ですから、『クレゾールのような香り、化学式はこうだな』とか思い浮かびました」。それまでバーボンやカクテルばかりだったが、そのときを境に様々な蒸留酒を試すようになる。

コニャックは癒やしの酒

 「オゴッテクンナイッスカ?」。東京・高田馬場のカフェレストランで、一緒に店に来た高校時代の恩師に神妙な面持ちでお願いしたのは、高級ブランデーのコニャック「ポール・ジロー35年」。当時、ウイスキーが1杯800円ほどだったとき、1杯3500円もした。グラスを近づけると、とれたての甘いマスカットのような香りが強く感じられ、アルコール度数は40度以上あるのに、ワインのように飲みやすかった。人に酒をねだったのは人生でこの一度きりだが、衝撃的だった。「むちゃくちゃうまかった。これは違うな~と驚きました」
 ウイスキーは人を覚醒させる酒と言われるが、コニャックは魂を沈静させる酒。仲間と議論しながらグラスを傾けるのがウイスキーなら、コニャックは心と体を癒やすのにぴったり。谷嶋さんはそう考えている。コニャックを知ることでウイスキーへの理解が深まるように、ほかのお酒を経験すると、もともと好きだったお酒の位置づけがはっきりする。

コニャックの造り手・ポール・ジロー氏と

化粧品メーカーの研究職からバー店主に

 大学院を卒業し、化粧品メーカーに研究職として就職するが、「いつかバーをやってみたい」という思いは抑えきれず、5年ほどで退職した。物件が見つかるまで高校の教員を勤め、1998年に店を開いた。
 今でこそ神楽坂はバーがひしめく街だが、谷嶋さんがオープンした頃は少なかった。「大人な感じで楽しんでくださるお客様に恵まれました」。ウイスキーやブランデーといった蒸留酒やカクテルだけでなく、1本10万円を超える高級なワインも提供する。
 谷嶋さんにとって、お酒のもたらす最大の効用は香り。「ウイスキーやブランデーといった、琥珀こはく色の蒸留酒がもたらす香りは唯一無二。バーという落ち着いた空間で味わえば、日頃のストレスや疲れも癒やされます」。その魅力を多くの人に知ってもらうことは、谷嶋さんのライフワークでもある。(クロスメディア部 小坂剛)


 谷嶋さんを案内役に、めったに味わう機会のない100年以上熟成させたコニャックをテイスティングする、限定30人の豪華リアルセミナーを12月5日(日)に開催します。詳しくはこちら

谷嶋元宏(やじま・もとひろ)】1966年京都府生まれ。酒育の会代表。早稲田大学理工学部在学中より、カクテルや日本酒、モルトウイスキーに興味を持ち、バーや酒屋、蒸留所などを巡る。化粧品メーカー研究員、高校教員を経て、東京・神楽坂にバー「Fingal」を開店。2015年、日本の洋酒文化・バーライフの普及・啓蒙を推進する団体「酒育の会」の活動を開始。同団体は翌年、一般社団法人となり、現在に至る。JSA日本ソムリエ協会認定ソムリエ。

<筆者紹介>
小坂剛(こさか・たけし) 読売新聞クロスメディア部次長。秋田支局、社会部、メディア局などを経て現職。お酒と食べ物に好き嫌いなし。著書に「酒場天国イギリス」「あの人と、『酒都』放浪」(いずれも中央公論新社)。酒文化の紹介がライフワーク。

→「夏子の酒」の続き、日本酒をコメからつくるとはどういうことなのか?(上)
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