福島県喜多方市は、水がいい。水道水の源流は、


瀟洒(しょうしゃ)な建物の外観。店内もスペースが広くて清潔だ。
喜多方で、初めてラーメンを食べる私は、期待に胸を膨らませ、喜多方駅から車で5分ほどの喜一に到着した。すると、まだ昼前なのに「本日は終了しました」という案内板が出ている。それなのに駐車場ではひっきりなしに車が出入りし、客が店に入っていくではないか。あとで理由を聞いて納得した。客たちは、午前5時過ぎに店頭に出される紙に名前を記入し、予約時間に戻ってきているのだった。午前8時半頃には数百人の名前が連なり、その日のラーメンは予約だけで売り切れてしまうことが多い。だから午前9時の開店時間になっても「本日は終了しました」の案内板が外されることはないのだという。



取材の約束をしていた私は、清潔な和室席に通された。しばらくすると、「お待ちしていました!」と威勢のいい声とともに、店主の吉田

「喜多方では、麺にもスープにも名水を使う。そこが最も大切なところです。だから、喜多方に食べに来てほしいな」。開口一番、喜多方ラーメンの魅力をアピールする吉田さんに、さっそく代表メニューの「熟成しょうゆラーメン」(600円、税込み)を注文した。チャーシュー4枚、メンマ、ネギののったシンプルなラーメンが運ばれてきた。



まずは喜多方の水をたっぷり使った極太ちぢれ麺をいただく。もちもち、つるつるしていて非常においしい。「高い製麺技術が求められる超多加水麺です」と吉田さんが説明する。どれくらい水を使うのか尋ねると、季節に応じて43~48%という。
つまり麺の半分近くは水である。普通ならべたべたになってしまい、商品にならないが、喜多方の製麺所はどこも子どものもち肌のような麺を作れるのだという。だが扱いには繊細さが必要だ。一般のラーメン店のように大きな動作で湯切りはしない。湯から麺を出したら、ざるに入れたまま、水が落ちるのを静かに待つ。腕を激しく振って湯切りをすると、麺に傷が付き、エキスが漏れ出てしまうからだ。




スープは、鶏ガラ、豚骨、かつお節などの魚介系から取り、うまみを引き出している。すっきりしていて美味だ。「朝から食べられる。毎日食べても飽きないラーメンにしています」と吉田さんは言う。そのために吉田さんは毎日午前5時に厨房に入り、スープをとった後の食材はすべて鍋から取り出し、不純物やアク、脂をきれいに取り除いてコンソメのようなクリアなスープを作るのだという。これによって、スープの味が時間帯によって変わることなく、いつも安定した味のラーメンを提供できる。






手作りの豚バラ肉のチャーシューは、返しに使うしょうゆで煮込む。チャーシューの脂身は、スープの熱で溶け、食べ進めるうちにコクが出てくる。返しのしょうゆは自家製メンマにも使っており、ネギは地元産だ。だから味のバランスが崩れない。吉田さんは「丼の中は家族」と表現する。
もちもちの極太麺とすっきりとした上品なスープで、最後までおいしく食べられるラーメンだった。
それにしても、税込み600円は安い。吉田さんが説明する。「これくらいの値段がラーメンじゃないかな。先輩や上司が『ごちそうする』と言った時に財布の中身を見なくてもいいのがラーメンだと思うんですよ」。原材料が高騰している中、吉田さんはオーナーシェフとしてそんな信念を貫こうと思っている。
店名の喜一は、吉田さんの曽祖父、喜一郎からとった。喜一郎は、医師を目指していた書生時代、黄熱病や梅毒の研究で知られ、1000円札の肖像になっている野口英世とともに勉強した。明治中期、喜多方から約20㌔離れた会津若松にあった「

書生時代の吉田喜一郎(中央)。左が野口英世。(喜一のホームページから)

現在は1階が喫茶店、2階が野口英世の資料館になっている旧会陽医院




野口英世の母が息子にあてた手紙のコピーが個室に飾ってある
医師試験に合格した喜一郎は、留学を経て軍医となり、海軍軍医大尉として日露戦争にも出征。退官後は東京の病院に勤務した後、故郷の喜多方に戻り、吉田医院を開業した。
だが、喜一郎の時代は大地主だった吉田家は、戦後の農地改革でほとんどの土地を失い、満さんが生まれた頃には裕福だった頃の土地、屋敷はなかった。
食べることが好きだった吉田さんは若い頃、「昼めし、夜めし食えるな」くらいの気持ちで飲食の世界に飛び込み、東京・六本木のステーキ店などで働いた。その後、故郷に近い猪苗代に開業したリゾートホテルの支配人を経て、30歳で独立。会津若松にステーキとしゃぶしゃぶの店を開いた。経営は順調だったが、やがてバブルが崩壊し、客足は遠のいていった。
このままでは終わりだと、2005年に一念発起して始めたのがラーメン店だった。54歳だった。「客単価1万2000円から500円でしょ。生活していけるだろうかと不安はありました」。ステーキ店の客にラーメンを出していたことはある。だがラーメン店で本格的に勝負するのは訳が違う。しかも、ラーメン激戦区の喜多方にあえて出店した。吉田さんは「やるなら喜多方。本場だから、そこから逃げたくなかった。同じ土俵で勝負したかった」と振り返る。
最初の年は、妻の留利子さんと正月以外は休みなしで必死に働いた。飲食一筋で培った味と技術、経験を生かし、麺にもスープにもこだわった。新参者ながら人気が出て、客は1日100人、200人と増えていった。
吉田さんは、自宅で「ぴーちゃん」という猫をかわいがっている。ぴーちゃんを飼い始めてから、物事がすべてうまく進むのだという。喜一を始める前年の2004年、自宅の外で3匹の子猫が鳴いていて、飼うことにした。だが2匹は、1週間で死んでしまい、ぴーちゃんだけが残った。
ラーメン店も軌道に乗ったある日、夫婦で旅行に行くことにした。すると、どちらが言い出したわけでもないのに、なぜか新潟県の佐渡島に行くことになった。そこで偶然見たのが、地元に伝わる民謡の佐渡おけさの舞台だった。吉田さんはその内容に驚いた。衰弱した老飼い主の前に、飼い猫が人間の娘に化けて現れ、「長らくお世話になりました。あなたに大事にされてきた猫です。これから恩返しをさせてください」と言い、飼い主に大金をもたらす。
吉田さんは「『ぴーちゃんが私たち夫婦にメッセージを伝えたくて、ここに来させたんだ』と確信しました」と話し、「今でもそう信じています」とまじめな顔で言った。
喜一は、それからますます繁盛店となり、吉田さんは朽ち果てていた先祖の墓も立派に建て替えることができた。


地元に伝わる会津唐人凧(とうじんだこ)が店内に飾られている

東北6県のセブン‐イレブンでも販売されてきた喜一のラーメン
吉田さんは今、若い人を育てて喜多方を元気にしようと頑張っている。地元の老舗みそ店の息子が塾長になり、酒店の後継ぎ息子と吉田さんの息子をメンバーに、喜多方の活性化につながるアイデアを練っている。吉田さんも支援し、どんどん新しいことに挑戦するつもりだ。ゴールデンウィークに福島市の複合施設で喜一プロデュースのラーメン店を出したところ、大成功だった。

「これからの喜多方を引っ張っていく若い人たちに、今度はおれが恩返ししないとな」。吉田さんはそう言って目を細めるのだった。
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■喜一
福島県喜多方市関柴町