お酒を愛する人々の物語をお届けします。

卒論は清酒業界の考察

 神奈川県海老名市の泉橋酒造に蔵元の長男として生まれた橋場友一さんは、バブル経済の絶頂期に大学生時代を過ごし、4年生となった1991年度の卒業論文のテーマに清酒業界を選んだ。将来家業を継ぐつもりだが、日本酒の消費量は減り続け、毎年、中小の酒蔵が廃業に追い込まれていた。大学生がコンパで飲むお酒もビールやチューハイで、若者は日本酒に背を向けていた。日本酒は危機にひんしている。そう感じた橋場さんは、どうすれば業界を活性化できるのかを考えた。
 全国の蔵元260社にアンケートを送るなどして、まとめた卒論のタイトルは「清酒製造業界に関する一考察」。そこで、20歳代前半のイメージアップにつながるテレビCMとともに必要だと強調したのが、日本酒の原料となる酒米の価格を引き下げること。コメの流通を規制する食糧管理法のもと、酒蔵は国際価格より高い水準の米しか使えず、人材の確保や広告宣伝に費用をかけられないと問題点を指摘した。アメリカやタイから輸入した安い米を酒米に使えば、ビールや焼酎など他の酒類製造に比べて高い原材料費の比率を抑えられると提言したのだ。

花嫁道具の「夏子の酒」

 「一度は外の飯を食ってみたい」と証券会社に就職して大阪に勤務したが、3年目に阪神大震災に遭遇する。大惨事を間近にし、「人生何が起きるかわからない、早く自分のやるべきことをやろう」と退職を決意し実家に戻った。その年の春、学生時代に知り合った由紀さんと結婚。由紀さんが「酒蔵に嫁ぐなら読んだほうがいい」と友人に勧められて購入し、「花嫁道具」のように持参したのが漫画「夏子の酒」(作・尾瀬あきら)だった。

「夏子の酒」は今も時々読み返す

 東京でコピーライターを目指していた夏子が広告代理店をやめて新潟県にある実家の酒蔵「佐伯酒造」に戻り、兄の残した幻の酒米「龍錦」の種籾(たねもみ)から米を育て、杜氏(とうじ)の「じっちゃん」と日本酒を醸す。酒米は外から購入するものと考えていた橋場さんは、「日本酒をコメからつくるジャンルもあるんだ」と目が覚める思いだった。

実家に戻ったら食管法廃止

 ワインの造り手が原料のブドウから育てるように、造り酒屋が原料の米を自ら栽培することは、昔は珍しくなかった。だが、太平洋戦争中の米不足から食糧管理法ができ、米の生産や売買は政府の管理下に置かれ、戦後は酒蔵が自由に米を作ったり調達したりすることはできなくなった。
 海老名市の一帯は丹沢山系の伏流水にも恵まれ米作りが盛ん。1857年に泉橋酒造を創業した橋場家も、もともとは農家だった。酒造りに使う米を自ら生産していたが、戦争中の統制強化で廃蔵に追い込まれ、戦後の農地解放で多くの水田を手放した。自力で耕せる農地は残され、1955年に酒蔵は復活が認められるが、栽培した米は自宅で食べるか農協に出荷するしかなかった。
 橋場さんには苦い記憶がある。子供の頃、父親が個人所有の水田で酒米を育てたことがあった。収穫した米を酒造りに使おうと思い、農協や行政に掛け合ったが、結局認められなかった。食卓で父はがっくりと肩を落とし、気まずい雰囲気が漂っていた。橋場さんは、今も炊きあがった米のにおいをかぐと、敗北感にうちひしがれた父の表情を思い出すという。
 その食糧管理法は、橋場さんが証券会社を辞めて実家の泉橋酒造に入った95年に廃止された。「家で作ったお米で、酒を造ってもいいんでしょうか」。橋場さんは海老名にあった食糧事務所に聞きに行った。それまで酒造組合経由で購入していた酒米を、自分で育てることもできるし、自由に調達できるという。橋場さんは、県外の農協や農家に足を運び、直接、酒米や種籾を手に入れた。

地元農家と酒米研究会発足

酒蔵の敷地(手前)と隣接した自社田

 翌96年、自社田で病気に強い品種の「日本晴」の栽培を開始した。消費者にも田植えに参加してもらうイベントを企画し、開設したばかりのホームページで参加を呼びかけたところ、初回は70人が集まった。当時はホームページを作成したこと自体がニュースになる時代。ホームページを見る人がまだ少なかったせいか、取引先以外の参加者はパソコン好きの「理系男子」が多かった。
 消防団を通じて、地元で酒米づくりに協力してくれる農家を募った。趣旨に賛同し、契約栽培に協力してくれる若手の農家ら4人と泉橋酒造で「さがみ酒米研究会」を設立した。こうして仲間を広げる手法は、保守的な地方で無理解に直面しながらも、粘り強く龍錦の栽培農家を増やした夏子に学んだ。橋場さんにとって「夏子の酒」を読んだことは、実際に米作りを始めるシミュレーションになった。
 専門家の教えも仰いだ。その一人が、吟醸酒など高級酒に用いられ酒米の王者とも評されるブランド品種「山田錦」の栽培を指導してくれた元国税庁鑑定官の永谷正治氏。全国に山田錦の栽培を広めた人物で、森喜酒造(三重)や秋鹿酒造(大阪)、丸本酒造(岡山)など、米作りから手掛ける酒蔵の多くが教えを受けている。一般的に、米は粒の大きい方が高く売れるため、農家は肥料をたくさんやってタンパク質を増やそうとする。だが、タンパク質は酒にしたとき雑味になるから、食用米と酒米で、よしあしは異なる。山田錦は野生に近い種のため、肥料を抑えて自然に近い状態で育てるべきだ、というのが永谷氏の考えだった。

たわわに実る酒米の「山田錦」

 8年間にわたって永谷氏の指導を受けた橋場さんは、2007年、病を患い、亡くなる前の永谷氏を病院に見舞っている。意識がもうろうとするなかで、永谷さんが橋場さんを見て振り絞るように口にしたのは、「水を入れるな」の一言。都市化が進んだ海老名のような地域では、農業用水にも栄養分が多く含まれており、その水を田に入れすぎると、稲の丈が高くなり倒れてしまうと、教えられていた。橋場さんは「『よく来た』でもなく、『水入れるな』。病に倒れても、田んぼのことをひたすら考えてくれていました」と振り返った。現在、泉橋酒造と研究会の契約栽培農家で酒米をつくる計46ヘクタールの3分の2が山田錦だ。(クロスメディア部 小坂剛)

橋場友一(はしば・ゆういち)】1968年神奈川県海老名市生まれ。92年に慶応大学商学部を卒業後、証券会社に入社し、大阪で3年間勤務。95年に同社を退社し、家業に入る。同社で96年から酒米作りをはじめ、米作りから酒造りまでを一貫して手掛ける「栽培醸造蔵」を掲げる。同社は2007年には生産する酒をすべて醸造用アルコールを添加しない純米酒に切り替え、「オール純米蔵」に。専務を経て08年に社長。

<筆者紹介>
小坂剛(こさか・たけし) 読売新聞クロスメディア部次長。秋田支局、社会部、メディア局などを経て現職。お酒と食べ物に好き嫌いなし。著書に「酒場天国イギリス」「あの人と、『酒都』放浪」(いずれも中央公論新社)。酒文化の紹介がライフワーク。

→「『夏子の酒』の続き、日本酒をコメからつくるとはどういうことなのか?(下)」
←「酒場天国・日本をもっと楽しく〜神楽坂に酒育の伝道師あり」

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